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zoom RSS 映画の感想文 [509] 8 1/2

<<   作成日時 : 2012/08/04 00:56   >>

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【8 1/2】
原題:Otto e Mezzo
製作国:イタリア・フランス
製作年:1963年
日本公開:1965年9月
監督:Federico Fellini(フェデリコ・フェリーニ)
出演:Marcello Mastroianni(マルチェロ・マストロヤンニ)

=== あらすじ(途中まで) ===
 映画監督のグイドは、新しい映画の製作で行き詰っていた。海辺のリゾートホテルに大勢のスタッフと一緒に泊まり、浜辺に巨大な宇宙船の発射台のセットを組ませるものの、主要な配役は決まらず、撮影に入る気力が少しも湧いてこないのだ。
 グイドは愛人のカルラを近くのホテルに呼び寄せて情事に耽るが、心は癒されない。妻のルイザにも来てもらうものの、夫婦の冷たい関係は変わらないまま。同じホテルに湯治に来ていた枢機卿に面談して悩みを打ち明けても、何も解決しない。
 やがて、グイドは子供のころの思い出や、若いクラウディアをはじめとする女性達との情欲の妄想に逃避するようになる。

=== 感想 ===

● 最高傑作か?
 現実と妄想――監督を取り巻く現実と、彼が抱く妄想とが交錯する。
 この映画が公開された当時は画期的だったらしく、多くの監督がお手本にしたのだそうだ。
 もちろん、いまではこうした映像はまったくありきたりで、珍しくも何ともない。むしろ妄想を扱う場合、通常はシュールで幻想的な映像が多いのだが、この映画では普通の情景がほとんどだ。したがって映像美の世界といった映画でもない。
 映画史のような関心でもない限り、現代の若い人がこの映画に感動することは難しいだろう。
 にもかかわらず、『最高傑作』と持ち上げるレビューは多い。どうも無粋なブランド志向のように思えてならない。

● 難解か?
 例によって『難解な映画』というレビューも見かける。
 確かに理屈っぽく見ようとすると、何を伝えたい映画なのか分かりにくい。映画全体の構造が、現実と妄想とが交錯するものだけに、各シーンのいろいろな要素のすべてが意味ありげに見えてくるのだ。人物やシーンが何かの「めたふぁ〜」になっているという観方をすると、いくらでも理屈はこねられそう。

● 例えば
 後述するが、僕が特に注目した二人の女性、クラウディアとサラギーナを例にすると、彼女たちの意味は何か?
 クラウディアは登場シーンが特徴的で、グイドの幻視に現れる。泉の女神あるいは古代の巫女のようなイメージだ。グイドの魂を浄化する存在だ。
 するとサラギーナはサロメということになるのかも。グイドはヨカナーンのように首を落とされるか、魂が堕落するところだった……とか。

 地球脱出の宇宙船というのはノアの箱舟を思わせるが、最後のシーンは、宇宙船に乗り込むところではなく、降りてくるところだ。したがって、この後で全員が輪になって踊っている場所は、地球ではなく別の星だ。それは、劇中の枢機卿のセリフによれば『神の国』ということになる……とか。

 こうした思いつきなど、いくらでもこじつけられるだろう。

● 特徴
 しかし重箱の隅ばかり見るのではなく、まずはこの映画の特徴を大掴みにすることが必要だ。
  主要な人物は映画スタッフとオンナ(性的な匂いの強い女性)と聖職者。
  主要な場所はホテルと海辺と教会(あるいは修道院?)。
  作ろうとしている映画は、宇宙船による核戦争後の地球脱出。
 いわゆる『難解な解釈』をしたいなら、こうした特徴をすべて完全に踏まえたものでなければならないのだが、そんなの見たことない。先ほどの『意味付け』のようなものも、適当に抽象的な妄言を重ね、それに都合のいいシーンだけをつまみ食いしているようなものばかり。
 ツマラン!

● 答
 そもそもこの映画では、こうしたツマラン観方はトンチンカンだろう。劇中で「映画の登場人物の意味は何か、哲学的な意味は何か」といったクイドへの問いかけが何度か出てくるのだが、常に答えはない。それが答えなのだろう。つまり、
 人物やシーンに、特段、哲学的な意味はない!
 したがって、難解な映画ではないと思えばよいのだ。

 ちなみに、映画のラストでのグイドの結論は「この混乱が私だ。人生はお祭りだ」だけど、もちろんこの言葉は普遍的なメッセージなどではない。混乱も人生がお祭りなのもグイドだけに関することで、他の人々には関係ない(*1)。
 このとき踊りの輪に聖職者たちやグイドの母親も加わるのだが、敬虔なクリスチャンである彼らに混乱はないし、祭りは一時のもので、人生ではない。すなわち「この混乱が私だ。人生はお祭りだ」を普遍的なメッセージと捉えてしまうと、彼らの人生を否定することになる。グイドがそんなことを望むはずはない。
 ゆえに「この混乱が私だ。人生はお祭りだ」というセリフは、グイドというキャラクターのアトリビュートであって、映画全体のメッセージではないということになる。

● どっかへ行っちまいてえ〜
 この映画のモチーフは、創作に行き詰って「どっかへ行っちまいてえ〜」という気持ちを表現したものなのだろう。
 実際にフェリーニがそういう気持ちになって、ヤケクソで作ったのかもしれない。
 グイドの精神状態は現実逃避、作る映画は地球逃避、そしてクライマックスの行動はインタビューからの現場逃避だ。
逃避」だな。
 もちろん精神上の現実逃避が一番メインになる。グイドの心が逃げる先は、
1 まずは若い女性の幻視、
2 次いで幼少時の思い出、
3 さらに聖職者への責任転嫁、
4 そしてハーレム願望という妄想
なわけだ。
 まさに、この映画を観たまんま!
 観たままの映画なのだ。

● 役者
 グイドを演じるマルチェロ・マストロヤンニは、手馴れた安定感があって、安心して見ていられる。
 数多く出てくる女性については、誰に着目するかは観客の好き好きなのだろう。
 僕の場合、役ではサラギーナだ。浜辺のトーチカに住む娼婦。太い体と、ちょっとセクシーだけど地中海の太陽が似合う明るいルンバの踊りが、とても印象的だ。
 俳優では、クラウディアを演じたクラウディア・カルディナーレ。すごい美人だ。2010年に日本で公開されたリメイクの『NINE』ではニコール・キッドマンが演じていたので、つい比較してしまうのだが、美人度ではクラウディア・カルディナーレ、演技力ではニコール・キッドマンということで、いいんじゃないかな。

● 結論
 映画の最後のシーンは、グイドが子供になってサーカスで笛を吹いている姿。子供のころから人生はお祭りなのだということだけど、むしろ観客も子供になれといっているかのよう。

 この映画、本来は気楽に見る映画だと思う――子供のような心で。


〔補足〕
 この映画に対する周囲の駄弁は、監督自身うんざりしているみたい。
 実は、1978年の『オーケストラ・リハーサル』という中編映画で、コンドームを使った悪戯シーンのあと、登場人物に「『8 1/2』って精神分析の映画か?」と語らせている。
 この映画に対してフロイトやらユングを気取った精神分析っぽい解釈を垂れる輩への皮肉なのだろう。潜在意識がどうたらとか、性的発達理論がどうたらという奴ってドンクサイという気持ちが強いみたい。

(*1) とても重要な台詞だし、グイド=フェリーニとみなせば、フェリーニの庶民的、享楽的、楽天的なスタンスを表わす言葉とみなすことはできる。
 でも、これはこの映画全体を支配するメッセージではない。あくまでも、映画監督であるグイド個人の言葉でしかないのだ。

画像
幻視

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ルンバ

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マネの『笛吹く少年』ではないよ……って、全然違うか。

リメイクの感想はこちら
 ⇒ NINE

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