ハムイチの棲み家

アクセスカウンタ

zoom RSS 映画の感想文 [777] カサノバ

<<   作成日時 : 2014/12/24 23:56   >>

トラックバック 0 / コメント 0

【カサノバ】
原題:Il Casanova di Federico Fellini
製作国:イタリア、米国
製作年:1976年
日本公開:1980年12月(制作:1976年)
監督:Federico Fellini(フェデリコ・フェリーニ)
出演:Donald Sutherland(ドナルド・サザーランド)

=== あらすじ(途中まで) ===
 18世紀のヴェネチア。豊富な女性経験で有名なカサノバは、フランス大使の覗き趣味を満たした帰り、邪教の罪で宗教裁判所に捕らえられ、鉛屋根の牢に投獄された。何年か掛けてようやく脱獄に成功するが、その後はパリ、パルマ、ロンドン、ローマ、ベルン、ドレスデン、ブルテンベルグなど、ヨーロッパ各地を転々とした浮き沈みの人生を送ることになった。各地で女性を愛し、ローマでは「性力」競争に勝って「性技」の名声を高めるが、しだいに体は衰え、若い者たちからは笑われ、生活は侘しいものになっていった。

画像

=== 感想 ===

● 性豪
 ドンファンと並ぶ女たらしあるいは性豪として有名なカサノバを主役とした映画。
 女なら若くても老いていても何でもウェルカム。ただし、婆さん相手の場合はさすがに持続が難しいらしく、若い女に脇で尻を振らせ、それを見て興奮しながらの奮闘となる。
 ――って、なんとも下品な書き出しだな。実際、この映画、見ようによってはなかり下品なのだ。
 一方で、セックスシーンなどは控えめな描写。例えば女性の裸は登場しないし、カサノバが全裸になることもない。映像的には、あの様子を下着姿の男女が体の位置関係と動きだけで表現してるというもの。最近のAVを見慣れた人たちからすれば、ただのコントのようなセックス描写だろう。
 でも、これって見ようによってはシュールでお上品ということもできる。

 こうした両極端な受け止め方――フェリーニの魔法、いや魅力のひとつだな。

● 遍歴
 この映画に登場する女性(及び女性の人形)のうち、カサノバと関係を持つ者、あるいはカサノバが強く関心を引かれたらしき者は次のとおり。

1 ヴェネチア、修道女マッダレーナ
2 ヴェネチア、ジゼルダ伯爵夫人
3 ヴェネチア、お針子アンナマリア
4 パリ、デュルフェ侯爵夫人
5 パリ、トレビーゾ出身の赤毛の女マルコリーナ
6 パルマ、アンリエット
7 ロンドン、売春婦シャルピヨン
8 ロンドン、ジャルピヨンの娘
9 ロンドン、ハタヤハ王女の巨女アンジェリーナ
10 ローマ、侍女ロマーナ
11 ベルン、昆虫学者の娘イザベラ
12 ベルン、昆虫学者のもう一人の娘
13 ドレスデン、胸ホクロの女優アストローディ
14 ドレスデン、男装の女優ジョアンナ
15 ブルテンベルグ、人形ロザルバ

 これらの女性たち一人一人は順番に現れては消えるというだけでなく、それぞれがそれなりのストーリーを持っている。きちんとキャラ立ちしているのだ。
 こうしたところの演出のうまさもフェリーニならでは。映画が終わったときに振り返れば、経験値だけは豊かな人生だったなと実感させ、それが逆に次に述べるような虚しさを醸すことになる。

● 目標
 カサノバの人生の目標は女性の経験数を誇ろうとするものではない。アホが自慢するような「女千人斬り」なんて、彼にとってはくだらないことなのだ。性技と精力は自分の取り得だと承知はしているが、自分からひけらかすようなことはしない。

 カサノバが目指していたのは、自分が身につけた豊かな知識や学問的な知見を駆使し、王族や高級貴族のブレーンとして活躍することだった。実際に、学問や文芸の知識であちこちの有力者をパトロンとし、いわば食客のような立場で生計が成り立っていたようだが、あくまでも主(あるじ)の脇で教養や趣味を満たすだけの役割だった。政治や経済など、雇い主の本業に関するところで役に立ちたいのに、結局はお抱えの道化師や芸人と大差ない境遇だといえる。
 それでも一般人と比べればはるかに恵まれた生活なのだが、カサノバの願望は満たされぬままということになる。

 映画の序盤、カサノバはフランス大使に自分を雇うよう売り込むのだが、その願いは無視される。それもまったくの無言の無視。後半になるとドレスデンでも同じように自分を盛んに売り込むが、相手の城主は何の関心も無いという風情で無視される。
 実際、カサノバの売り込みは言葉だけで、何かしらの実績を示すとか、能力を証拠だてるようなモノを見せつけるとか、そういったアピールがない。要するに自分を売り込むプレゼンテーションが下手なのだ。やがて老いてしまうと、もはや売り込むネタもなくなり、さほど秀でてるとはいえない詩の素養を生かして朗読会を催す程度。これすらも時代遅れの陳腐なものと若い者たちからは嘲笑されてしまう。

 カサノバは、ついに自分の才能を生かせる機会を得られなかったと、人生に失望を感じたことだろう。

● 男優と女優
 カサノバを演じるのはドナルド・サザーランド。スコットランド系のカナダ出身にしてプロテスタントの牧師の子。ヴェネチアのカトリックであるカサノバとはずいぶん異なる経歴の役者だ。もっともカサノバは映画の中では異教徒扱いなので、まあいいか。
 この役者、目が怖いので日本では人気が出ないけど、僕はずいぶん昔に『MASH』や『コールガール』などを観てファンになっているので、彼がフェリーニの映画の主役となっても驚かない。もっとも、ひっつめ髪の精力絶倫男が似合うかどうかは別だけどさ。
 なお、音声は英語版とイタリア語版とがある。カサノバの声は、英語版では張りのある声でドナルド・サザーランド本人だと思うけど、イタリア語版は艶のある声で、明らかにアフレコ。こうした違いも面白い。

 多くの女優の中で、一番可愛く見えたのはアンリエット役のティナ・オーモン。ドレス姿より、馬車の中などのパンツルックのほうがいかしてる。
 もう一人、特筆すべきは人形ロザルバを演じたアデル・アンジェラ・ロヨディス。今日でこそ人形振りやロボット・ダンスなど珍しくもないが、彼女の場合、ときどき生気を感じないことがある。つるつるに艶のある化粧も気色悪いような、いかしてるような。朝になってベッドでV字開脚してる様は、まさに現代のダッチワイフそのもの。

● 映像
 映像については完璧に芸術の域――というのは間違いではないけれど、僕の場合、むしろ長年の経験で高度に洗練された職人芸のようなものを感じた。「芸術」の場合には一発屋みたいなものがありえるけど、「職人芸」の場合にはコンスタントな質の高さというものが要求され、この映画の場合、それがものすごく高い水準という印象なのだ。
 ルネサンス絵画のような晩餐会、シュールレアリズムのような脱獄の夜景、一方、雪が積れば水墨画になり、劇場のバルコニーの並びは無機質な抽象画のようで、晩年の城のサロンは光と黒の陰影が渋いゴシック絵画風。まさに変幻自在に映像を編み出している。
 映画全体が一つの夢のような世界になっているので、ラストに老いたカサノバが見る幻想シーンは、夢の中でさらに夢を見ているかのようなめまいすら覚える。
 すごいものだ。

 なお、すべての場面で強烈なツクリモノ臭がするのも大きな特徴の一つだろう。チネチッタの広大なスタジオに巨大なセットを組んで全編が撮られたというのは有名な話だが、美術の腕をもってすればもっとリアルな仕上がりにするなど雑作もないことだと思うけど、敢えてツクリモノっぽい仕上げなのだ。
 その意図は「虚しさ」の表現だと思うけど、そうした理屈抜きに、まずはフェリーニ特有の映像美の世界を堪能するべきなのだろう。

 こうしたセットの中で、次に述べるように運河はとりわけ重要だと思う。

● 真実
 映画の最初と最後はまったく同じセットだ。ただし、最初はお祭りシーンで大勢のエキストラがいて、建物などのあちこちに眩い明かりが灯り、運河には水が張ってあるのに対し、最後は幻想シーンで人影はまばら、月明かりが青く照らし、運河には青いビニールが張ってある。ただし、このビニールは氷った水面を表していて、その下には女神モーナの頭像が凍りついている。(*1)

 ここで僕らは気がつく。
 映画の冒頭では運河の水中から女神モーナの頭像が引き上げられるシーンがあり、あたかも巨大なオブジェを用意したかのように撮られている。ところが最後の映像で、運河のセットの水深は1メートルほどしかなく、冒頭のシーンは高さが異なる頭像のオブジェをいくつも用意して、カットを変えながら少しずつ引き上げられたかのように撮られていたのだと分かるようになっている。
 まさにフェリーニがマジックの種明かしをしているような気分。
 あたかも「これが映画の真実だよ」と言っているかのよう。

 つまり、ラストの幻想のシーンは真実、それも映画人であるフェリーニの心の内の真実を明かしていると見るべきなのかもしれない。
 そうなると、フェリーニのすべての映画のありとあらゆる映像の中で、このシーンこそが最重要な場面ということになるな。

 水を抜いた運河のセット。
 月夜の薄明かりの中、流れる雲が影を落とし、微かな笑い声と風の音だけが聞こえる静かな夢の世界。カサノバの愛した女性たちが現れては消え、やがて金の馬車に乗って法王と母が登場する。法王はパパだ(Papa=pope=法王)。そのパパが馬車の窓から顔を見せ、カサノバに人形と踊れとお茶目に合図をする。
 結局、孤独なカサノバの心を癒すのはパパと母であり、人生の最後を共にするのは声も感情もない人形だけだ。愛の言葉を交わす女はいない。
 なんと虚しい。
 それでもカサノバは踊り続ける、終わることなくクルクルと、クルクルと。

 人生はお祭りにして虚無なのだ――といったところかな。

● 重畳
 カサノバとは、
 自分を求めるすべての女性を愛した男。
 でも、愛の心より、性技と精力ばかりに着目された男。
 カサノバとは、
 自分の才能を正しく認めてもらいたかった男。
 でも、本当に才能があるかどうかも定かでない男。

 カサノバには、
 監督が自分自身を見つめる姿がどこまで重なっているのだろうか?


(*1) この映画の序盤、カサノバや修道女マッダレーナが海を渡るシーンは、ビニールを使って海のセットが作られている。
 実はフェリーニは『白い酋長』(1951年)のときから海の映像には苦労していて、このようなセットはフェリーニの他の作品にも出てくる。例えば『女の都』(1981年)のメイキング映像では、海のセットの様子がまるで歌舞伎の仕掛けのようだとわかるように種明かしされているし、『そして船は行く』(1983年)に至っては映画の本編の中で海と船のセットの撮影風景が収められている。
 今回の映像でははっきり作り物と分かるが、美術の腕が悪いのではなく、わざとそうしている事は明らか。

画像
祭りで運河から引き上げられる女神モーナ

画像
熟々女も可

画像
人形も可

画像
氷った運河

Federico Fellini(フェリーニ)の映画の感想
 ⇒ 寄席の脚光
 ⇒ 白い酋長
 ⇒ 青春群像 (ちょっと待ってね)
 ⇒ 道
 ⇒ 崖 (ちょっと待ってね)
 ⇒ カビリアの夜
 ⇒ 甘い生活
 ⇒ 8 1/2
 ⇒ 魂のジュリエッタ
 ⇒ サテリコン
 ⇒ フェリーニの道化師
 ⇒ フェリーニのローマ
 ⇒ アマルコルド
 ⇒ カサノバ (今回の書き込みです)
 ⇒ オーケストラ・リハーサル
 ⇒ 女の都
 ⇒ そして船は行く
 ⇒ ジンジャーとフレッド
 ⇒ インテルビスタ
 ⇒ ボイス・オブ・ムーン

 ⇒ このブログのトップへ
 ⇒ 映画の感想のインデックス(作品名順)
 ⇒ 映画の感想のインデックス(監督名順)
 ⇒ 映画の感想のインデックス(テーマ別(?))

 ⇒ 映画(全般)ブログランキングへ
 ⇒ にほんブログ村 映画ブログへ

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

映画の感想文 [777] カサノバ ハムイチの棲み家/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる