ハムイチの棲み家

アクセスカウンタ

zoom RSS 映画の感想文 [1090] ポンヌフの恋人

<<   作成日時 : 2017/06/30 13:03   >>

トラックバック 0 / コメント 0

【ポンヌフの恋人】
原題:Les Amants du Pont-Neuf
制作国:仏国
制作年:1991年
日本公開:1992年3月
監督:Leos Carax(レオス・カラックス)
出演:Denis Lavant(ドニ・ラヴァン), Juliette Binoche(ジュリエット・ビノシュ)

===== あらすじ(途中まで) =====
 アレックスは、老朽化して立ち入り禁止になったポンヌフ橋に住んでいた。ある夜、車に轢かれて足を骨折し、数日後に橋へ帰った夜、ミシェルという女性と知り合った。二人は橋の主ハンスの許しを得て一緒に寝起きをするようになるが、アレックスはミシェルが裕福な家庭の娘で、眼に奇病を患ったために人生に絶望して家を飛び出したと知った。
 二人は次第に惹かれ合うようになるが、ミシェルの病を治す方法がみつかり、彼女は親の元へ帰ってしまった。アレックスは、それを妨害しようとしてミシェルを探すポスター張りの男を誤って殺してしまい、刑務所に送られることになった。
 ミシェルは服役中のアレックスに面会し、出所したらクリスマスの夜にポンヌフ橋で会おうと約束した。

===== 感想 =====

● 黒歴史
 この映画は、もしかしたら「おふらんすえいが」のファンで理屈っぽいことを語るのが好きな連中には、存在しないことになっているかもしれない。
 あたかも、アンディ・ウォホールを現代アートを作った神のように祭り上げたがる連中が、『悪魔のはらわた』や『処女の生き血』を無視したがるのと同じようなものかも。
 いわゆる黒歴史というやつだな。
 もしも本文を読んだら、注1も見てね。

● ルンペン
 最近は差別用語という扱いらしいが、かつてはアレックスのような人々を「ルンペン」と呼んだ。厳密には「ルンペン(Lumpen)」だけだと「ボロ布」や「ボロ服」の意味でしかなく、「ルンペン・プロリアート(Lumpenproletariat)」で浮浪者のような無産階級を意味したり、あるいは労働者階級から脱落した極貧層などをさす。かつてマルクス主義が盛んだった時代には、頻繁に使っていた用語だ。
 最近の用語だと「ホームレス」が近いけど、「ルンペン・プロレタリアート」という言葉が持つ、階級社会の最底辺であり資本主義経済が必然として生み出す最も悲惨な被搾取階級といった意味合いはすっかり薄まってしまうし、革命という社会変革のエネルギーも萎んでしまう。
 19世紀であれば、アレックスもミシェルもハンスも革命の先頭に立つようなキャラクターだろうけど、ハンスは絶望してセーヌ川に入水し、アレックスとミシェルはパリを捨てる。
 現代のフランスには階級社会を転覆させるようなエネルギーも希望も感じることができない――この映画の一番のメッセージだと思う。

 一方、ルンペンという革命的・戦闘的・先鋭的な言葉を知らず、ホームレスといった、ほんわか温いオブラートに角(かど)をくるんでしまう人々には、この作品は「よくわからん映画」だろうな。

● ロマンス
 色々な国の映画を観る観客の場合、この映画は純愛を描いたラブ・ロマンスという観方が多いんじゃないかな。
 別に否定はしない。アレックスの心は純愛そのものだし、全体の映像のトーンなどから恋愛映画とくくるのも多いにありだ。
 ただし、それだとハンスとミシェルのセックスとか、ミシェルがラスト直前までアレックスと一緒に行くつもりは無かったことなどが、ちょっとかみ合わない。この映画を単なる恋愛映画と見做してしてしまうと、場面のあちこちに散りばめられた要素の多くを完全無視せざるをえなくなってしまう。

 でも、心配無用。
 そんなことを無視できるのが、逆にこの映画の良いところなんだよね。
 つまり……。

● フランス映画の良品
 昨今のフランス映画というと、やたら「解読の強要」を押しつけるものが多い。日常のありきたりな情景を延々と撮りながら、ところどころに何かしら思わせぶりなネタをちりばめ、あるいは登場人物に奇妙な言動をとらせ、「さあ、その哲学的な意味を答えてみろ!」と観客に突きつけるといった調子の作品だな。
 数十年前ならいざしらず、いまどきは、こうしたメッセージの隠喩や映像の多義性などは、さりげなくやるのが吉。
 で、この映画はひねくれた(どん臭い)思わせぶりなどは少なく、かなりストレートに作られているため、僕にとっては良品になったようだ。(*1)
 もちろん、ハンスの役割、ポスターの意味、炎は何のメタファーかなど、その気になればいろいろと考えるネタは満載なんだけど、そんなもん気にしなくても楽しめるというのが、いまどきのメッセージ性の高い作品としては、良品なのだ。

● 映像
 昼間の映像は、少し霞みが掛かっているようなイメージで、ちょっと「すえた」ような臭いが漂ってくる。ルンペンたちの巣の臭いということだろう。
 これは差別とかそんなことではなくて、階級闘争による革命の香りという表現だと思う。ただし、既に述べたようにもはや社会を転覆させるエネルギーなどないので、その香りは革命の残り香(のこりが)でしかない。

 夜になると、社会の醜いものはすべて見えなくなり、美しい映像が繰り広げられることになる。
 この映画で一番素晴らしいのは、ポンヌフ橋を中心とした街の夜景だと思う。
 夜になれば人の気配も少なく、パリの街中のひっそりとした一画にある壊れた橋。周りにはネオンなど無いが、闇のように真っ暗になるということでもない。薄明かりの中、アレックスやミシェルは蠢くような一日を終えて眠りにつく。
 活気も無ければ安らぎも無い、そんな中途半端なねぐら――それが夜のポンヌフ橋だ。
 すべてが半眠状態のようにまどろむ情景が美しい。

 さらにはアレックスが、生業(なりわい)としている大道芸で口から火を吹くシーン。闇の中に激しい火炎が巻き上がるけど、どこか虚しい。物悲しい。映像的にはすごく惹かれるシーンだけどね。
 くどいようだが、アレックスが上げるべき火炎は、大道芸のパフォーマンスなんかではなく、モロトフ・カクテル――つまり革命の火炎瓶の炎でなければならない。しかし、もはやアレックスたち現代のルンペン・プロレタリアートが上げる火炎には、そんなエネルギーは無く、ただただ物悲しく虚しいだけ。

 そして、一番印象的なのが、花火を背景にアレックスとミシェルが踊る夜。もはや説明不要な名シーンだ。

● 役者
 アレックス役はドニ・ラヴァン。
 アレックスは、身も心も常に重い。
 身体については、足を骨折していつも松葉杖をつき、足を引きずっている。心については、何の希望も持てない閉塞感や、ようやく心を開けると思った相手を失う孤独感など、常にどんより曇った状態だ。
 ドニ・ラヴァンはこうした重さというものをうまく表現していたんじゃないかな。
 炎を吹く大道芸の芝居すら倦怠感を感じさせるのは見事。

 ミシェル役はジュリエット・ビノシュ。
 意外と印象が薄い。ミシェルという役そのものが、心が優しいわけでもなければ強固な意志を持つわけでもなく、あまり魅力的でないこと、そして役者がさほどの美人ということでもないからだろう。

● 屁理屈野郎は無視
 失明や服役などの話の要点といい、街の灯にこだわる映像といい、たぶん、チャップリンの『街の灯』にインスパイアされたと思う(実際には『街の灯』に街の灯の映像はほとんど登場しないけどさ)。でも後味はまるで別物。どちらがいいかは、好き好きだな。
 理屈抜きで映像だけ見る――それで充分だから、一度は観てほしい映画。


(*1) もっともエンディングのアレックスの台詞が臭くて、後味をぶち壊してくれるんだけどね。
 どうしても、おふらんす映画ざあますねえ。

 つまり「目覚めよ、パリ!」という台詞。
 当時、この台詞が傑作という評判が多かったけど、僕は「どん臭いな」という印象だった。せっかく綺麗な映像でオチがまとまり、二人の心情もこれまでの状況を突き抜けようとしているときに、こんな「手垢まみれ」のベタな言葉は「無いわ!」と思ったのだ。
 数年後、この台詞は翻訳に誤りがあって、正しくは「まどろめ、パリ!」つまり「目覚めるな、パリ!」が正しいということになったらしい。「目覚めよ、パリ!」とは真逆の台詞。
 ところが、かつて「目覚めよ、パリ!」を傑作な台詞と絶賛していた連中は、人ごとのように知らん顔。この映画そのものに対しても知らん顔。
 これが、いわゆる、おふらんすえいがふぁん――なのだ。

 もちろん、「目覚めよ、パリ!」だろうが「まどろめ、パリ!」だろうが、カビが生えたフレーズによるただの思わせぶりでしかないので、僕にとってはどっちでもドン臭いまま。
 この場面に、こんな台詞は不要だ。

画像

 ⇒ このブログのトップへ
 ⇒ 映画の感想のインデックス(作品名順)
 ⇒ 映画の感想のインデックス(監督名順)
 ⇒ 映画の感想のインデックス(テーマ別(?))

 ⇒ 映画(全般)ブログランキングへ
 ⇒ にほんブログ村 映画ブログへ

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

映画の感想文 [1090] ポンヌフの恋人 ハムイチの棲み家/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる