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zoom RSS 映画の感想文 [1091] グラン・トリノ

<<   作成日時 : 2017/07/03 16:43   >>

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【グラン・トリノ】
原題:Gran Torino
製作国:米国
製作年:2008年
日本公開:2009年4月
監督:Clint Eastwood(クリント・イーストウッド)
出演:Clint Eastwood(クリント・イーストウッド)

===== あらすじ(途中まで) =====
 ミシガンで、長年、フォードの工場に勤めていたコワルスキーは、妻に先立たれて一人暮らしをしている。頑固で口うるさい性格なため子供や孫は近づこうとせず、近所にはアジア系の移民が増えて孤独が深まるばかりの日々だ。彼の生甲斐は、かつて自分が作った72年型のグラン・トリノをピカピカに磨き、テラスに座ってビールを飲みながらそれを眺めることだった。
 ところが、グラントリノを盗もうとする者がいた。その場は銃で追い払うが、犯人は隣家に越してきたモン族の息子のタオで、どうも同族の不良グループに唆(そそのか)されたらしい。後日、彼や彼の姉スーが不良に絡まれているところを救ったことがきっかけとなって、コワルスキーはモン族の家族と付き合うようになった。
 コワルスキーはタオを男として鍛え、建設現場の仕事を世話するなど、付き合いはどんどん緊密になっていくが、不良グループは快く思ってはいなかった。

===== 感想 =====

● 古き良きアメリカ
 グラン・トリノとは、フォード社が1972年から生産を開始した車種とのこと。この映画では、自動車産業を中心に「世界の工場」として製造業が盛んだったころの米国社会の象徴となっている。
 主役のコワルスキーは、かつて工員としてグラン・トリノを作り、いまは引退して、(多くの頑固者にありがちな)世間に悪態をつきながら、静かな余生を送るはずだった。ところが、銃を持って近所の悪者どもを追っ払うことになる。その様子は警官のダーティーハリーであると同時に、往年の西部劇で「悪いインディアン」をやっつける西部の男という風情。
 グラン・トリノとコワルスキーの組み合わせは、単に製造業のことだけでなく、もっと長い歴史スパンでの「古き良きアメリカ」の象徴なのだ。

 そうした「古き良きアメリカ」はもはや過去のもの。
 まず、「世界の工場」はもはや中国を通り越して東南アジアや南アジアへと移りつつあるし、「悪いインディアン」なんて滅多にいないし(実は過去も滅多にいなかったし)、自分が住む町の住人は、聖書もアメリカ合衆国憲法も大事にしないような連中ばかり。

● 排他主義
 この映画、一体何を描きたかったのか。巷のレビューの多くには大きな誤解があると思う。
 多様性あるいは多文化共生を謳う作品であるかのように称賛する意見は多いけど、嘘でしょという感じだ。
 まず、旧住民。この地区にはコワルスキーしかいない。他の旧住民はみんなどこかへ行ってしまった。新住民となった他民族が多くなった環境を嫌ったためで、「共生」を拒否している。
 次に新住民。主に登場するのはモン族。コワルスキーの隣家の老婆は、コワルスキーを睨みながらとっととこの町から出ていけばいいのにと毒づいている。たまたまコワルスキーが不良どもから家族を救うというドラマチックな出来事があったため、家族ぐるみの付き合いが始まるが、それがなければ冷たい関係が続いていただろう。コワルスキーとタオたちとの交流は、ドラマのようなフィクションがあればこそというところを見失って、この映画の異なる文化の交流を規範のようにもてはやすとしたら、相当、かなり、ひどく、現実を見る目がないというべきだろう。

 結局、コワルスキーは自分たちのグループに凝り固まる連中にはじかれる。排他主義は悲劇をもたらすと描かれるが、現実社会での解決の糸口は何も提示されないまま、この映画は終わる。

 しかも、昨今の「多様性」の論議でありがちな、先住民族は善良で後から来た民族は侵略者で差別主義者だという論理構造をそのままこの地区にあてはめると、コワルスキーらの旧住民は善良で、後から来た新住民のモン族らは街を侵略し差別を再生産してるという論理になるはずだが、「多様性」をやたら吹聴する方々は、どうもそういう考えはしないらしい。
 この映画に多様性の素晴らしさを見る――典型的なダブスタのエセ人権だな。

 テーマは、こうした多様性などではない。

● コワルスキー
 結局、この映画は何を言いたいのか?
 移民問題などであれば、カーメル市長も務めた政治家でもあるクリント・イーストウッドは、もっとダイレクトな形で自分の考えを主張するだろう。そうした主張の証拠を積み上げない限り、監督の経歴という観点からも「多様性賛歌」といったこの映画のレビューはトンチンカンだ。

 別に難しいことではない。この監督の映画をいくつか観たことがあれば自然と納得するはずだ。すなわち、
  この映画は、コワルスキーという一人の男を描こうとしている――と。
 移民が多い街という状況は、一人の男を描く上での環境設定にすぎない。広い意味でのキャラ設定の一部なのだ。さらにいえば、移民をモン族という少数民族にしたのは、後述のとおり、更なる理由がある。

 その前に、この男のもっと特徴的なアトリビュート(属性)を確認しておこう。
・ いわゆる独居老人
・ 息子夫婦とのディスコミュニケーション
 といった有りがちな設定に加え、
・ 元フォードの自動車工員
・ グラントリノを所有している
 という固有な経歴を持ち、
・ 男は男らしくあるべしと思っている
・ グラントリノをこよなく愛している
・ 他人に関わりたくない、お節介はしたくないと思ってる
・ でも本当に困っている人を見ると、つい助けてしまう
・ 凶暴な相手には銃で身を守ることも辞さない
 などの嗜好や信条が語られている。

● 老いたダーティーヒーロー
 結局のところ、老いたダーティーヒーローなのだ。
 クリント・イーストウッド演じるコワルスキーがリボルバーを構える姿を見て、往年の『ダーティーハリー』の格好よさを懐かしむ人は多いだろう。
 そう、警官と工員という職業の違いはあるけれど、コワルスキーは「ダーティーハリーのその後」の姿なのだ。
 ただし、ダーティーハリーそのものが、旧来の古き良き時代の米国のダーティーヒーローを総括する存在だ。

 オチを書けば、彼は殺される。
 しかし殺す者がマフィアあるいは旧来のマイノリティの犯罪グループの場合、彼の死は旧来の枠組みの中に組み込まれることになってしまう。
 これでは緩い!
 ダーティーヒーローは死んでもダーティーヒーローでなければならない。その死は、米国の旧来の枠組みから仲間はずれにあわないといけないのだ。
 だから旧来の米国の枠組みには無かったモン族という東南アジアの少数民族が、ダーティーヒーローを殺し、弔うのだ。

● 相続人
 ダーティーヒーローが死んだ。
 では、その後継者は誰か?
 この映画には登場しない。
 もはやダーティーヒーローそのものが、古き良き時代の遺物ということなのだろう。現代社会にダーティーヒーローは不要であり、存在意義もなく、存在する余地もないのだ。

 その代わり、ダーティーヒーローが持っていた心の一部を引き継ぐ者はいる。
 タオだ。
 タオは、もはや銃を持つことなどなく、世の悪党を直接的に排除するような仕事もしない。
 しかしダーティーヒーローの正義を愛する心は受け継ぐし、(性差別的かもしれないけど)ダーティーヒーローが目指した「男らしさ」というものを身につけていく。
 彼はグラントリノという動産を相続するが、それは表面上の形であって、大事なのはダーティーヒーローの心を相続したということなのだ。
 あるいは、グラントリノとは、古き良き時代のダーティーヒーローの心の象徴ということかな。

● お薦め
 この映画に対して、民族多様性を謳歌する傑作だと賞讃するレビューがあったら、今後、そのレビュアーはかなり警戒した方がいいよ。
 きちんとこの映画を見ず、自分に都合のいいところだけツマミグイしているわけだから。

 他民族を排斥する者を、多様性の理念で受け入れるときは、慎重に行うべきであり、そうでなければ排他的少数民族によって悲劇が引き起こされる。問題は複雑なのだ。まさに現代の難民や移民に伴うテロの現象を予見するものとなっているけど、監督にとってはそうした事柄はさほど重要ではないんじゃないか。

 古き良き時代のグラントリノを愛する古き良き時代のダーティーヒーローの末期――そういう映画でしょ。


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