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zoom RSS 映画の感想文 [1107] 残菊物語

<<   作成日時 : 2017/08/08 10:16   >>

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【残菊物語】
製作年:1939年
公開:1939年10月10日
監督:溝口健二
出演:花柳章太郎、森赫子

===== あらすじ(途中まで) =====
 五代目尾上菊五郎の養子二代目菊之助は、陰で大根役者といわれていたが、周りの者は甘やかすばかりだった。自分の扱いに嫌気がさした菊之助は、弟の乳母お徳から偽りのない評判を聞かされ、彼女に強く惹かれるようになる。しかし、菊之助の義母は後継が使用人と親しくなることを嫌い、お徳に暇を命じた。
 菊之助は一度はお徳の行方を捜し出すものの、会うことを許そうとしない菊五郎に怒り、大阪の人気役者である尾上多見蔵を頼って家を飛び出してしまった。
 しかし、1年経っても菊之助の芝居は上達しないままだった。落ち込む彼の元に突然お徳が訪ねてきた。悪い評判を聞きつけ、たまらず東京からやってきたのだ。二人は道頓堀近くの小さな部屋で一緒に暮らし始め、菊之助も自信を持つようになった。そんな矢先、多見蔵が急死し、菊之助は小さな旅周りの劇団へおいやられてしまう。
 4年後、菊之助はすっかり投げやりになっていた。さらに名古屋での興業の最中、座長が資金を持ち逃げし、とうとう劇団も解散せざるをえなくなった。市中に放り出され、途方にくれる菊之助とお徳。重い風邪にかかったお徳を看病しようと泊まった木賃宿で、幼馴染みの中村福助が名古屋に来ているという噂を聞きつけた。

画像
同居

===== 感想 =====

● 技法より感性が大事!
 この映画はこの監督における「ワンシーン・ワンカット」=「一つのシーンを長回しの一つのカットで撮る技法」が確立された作品だとよく言われる。まあ、映画史などの理屈好きには重要な節目の出来事なのでしょう。
 僕は頭が悪くて理屈は苦手なので「えいがのれきし」への関心は人並み程度。むしろ表現内容や作り手の感性のほうに興味があるタイプ。
 ワンシーン・ワンカット――なんぞと技法そのものにハシャグより、それが表現している中身そのものをちゃんと見たいというタイプ。
 ゆえに、以下は理屈屋さんから笑われそうな、お馬鹿な感想です。(*1)

● 横と縦と直角
 さて、表現内容ということで特徴的なのは、映画の舞台や背景となる堀と屋敷と芝居小屋ではないかな。
@ 横方向に長い堀
A 縦方向に長い、つまり奥行きのある屋敷
B カクカクと曲がりくねって直角の目立つ芝居小屋の内部
 だな。

 @については、まずは映画の序盤、お徳が菊之助を諭すシーンで目立つ。15分30秒ころから5分以上の長回しで、二人が並んで話しながら堀沿いに歩く様子をローアングルから捉える。
 この堀というのはクライマックスの伏線で、道頓堀の船乗り込み(ふなのりこみ)のシーンにつながる。ただし、そちらは長撮りではなく、お徳の様子とのカットバックだ。
 これら以外にも、何箇所か巧みなカメラの横移動を楽しむことができる。

 Aは菊之助の屋敷の中、特にスイカを食べるシーンなどが顕著だけど、ものすごく奥まで家の中が見通せるようなセット、そしてカメラ・アングルであることが特徴だ。役者が移動するときに、わざわざ画面手前の柱のさらに前を横切ってから、画面のずっと奥の座敷へ歩いて行くといったコースをとらせ、遠近感や奥行きをさりげなく強調している。照明などもすごく巧み。
 こうした手法は珍しくはないけど、下手な監督が撮ると「うるさい」だけなのに、こちらの映像は天才的。

 Bは楽屋など芝居小屋の内部を撮る時の特徴だ。敷居や手摺などがカクカクと直角に画面を切っているのが目立つということ。映画の冒頭で、役者仲間が菊之助の悪口をいうときに、壁に開いた横長の四角い隙間越しに見ているなども、印象が強い絵だ。

 これらについて、無理やり意味をこじつけると
@ 横方向――対等、平等――菊之助とお徳は対等な立場で惹かれあう
A 縦方向――身分、序列――屋敷では主人と使用人には隔たりがある
B 直角 ――規律、厳格――芝居小屋は規律が厳しく杓子定規な世界
 なんて考えられなくもないけど、どうだかね。まあ、僕の勝手な思い込みということで……。

● 誠実と健気
 お話は、菊之助とお徳の悲恋を描くもの。

 菊之助は典型的なボンボンで、芸を精進することに甘いところがあるものの、心は優しく、人の道に外れるような事はしない。ドツボのときにちょっとヤケになっても、基本的に誠実な人間なのだ。
 菊五郎のもとにいたとき、いくら周りが甘やかしても自分の芸がダメなことは分かっていて、何とかしたいという焦りもある。しかしそうした思いはちっとも実を結ばない。やがてお徳と心を通わせ、彼女に励まされるとみるみる体に力がみなぎってくる。菊之助にとってお徳は掛替(かけが)えのない存在だ。

 二人は親の反対を押し切って一緒に暮らし始めるが、運命はどんどん悪いほうへ転がっていく。大阪の劇団を追われ、旅回りの劇団がつぶれ、冷たい雨の中、お徳が風邪に倒れたときは、見るのも辛いほどの落ちぶれようだ。
 ネタバレをいえば、二人はその状況から抜け出る事ができるのだが、それはお徳が菊之助の才能と人柄を信じ続けたからこそだ。そして、とことん菊之助に献身を尽くしたからこそだ。
 お徳の健気さ――菊のように気高く美しい
 これが、この映画の最大のみどころだろう。

 一般的な観方でいえば、お徳には悲しい運命が待っていることになる。
 しかし、お徳の願いは成就することになるわけで、虚しいようで充実した人生、悲しいようで幸福な最期ではないかな。
 最後に一つだけ残った菊が散るかのようだ。

● 菊の花
 さて、タイトルの菊だけど、2度登場するみたい。

 一度めは雑司が谷。
 尾上家から暇を出されたお徳は雑司が谷の知り合いの家に身を寄せるが、その家の庭には菊の鉢がいくつも並べられている。きれいに咲いた菊が目立つのはこのシーンぐらいじゃないかな。
 お徳は、自分の行方を探し当てた菊之助と近くの鬼子母神(*2)で再会する。ここは日蓮宗法明寺の一角で、画面の背景にわざわざ法華の太鼓を叩きながら「なんみょーほーれんげーきょー(南無妙法蓮華教)」と繰り返す一団を映す。おそらく原作に沿っているのだろうけど、映画化に当たっては設定変更も可能なのに、あえてここが鬼子母神であることを強調している。何故?
 鬼子母神は、元々は子供を食う女性で、お釈迦様に諭されて安産・子育の神になる。ひらたくいうと女神。
 つまり、おそらく、お徳が女神のような存在だということの暗示なのだろう。(*3)

 二度めは道頓堀近く。
 菊五郎一門が船乗り込みをする夜、お徳の部屋の窓辺に菊の鉢が並んでいる。映像が鮮明でないので間違っているかもしれないけれど、その株の多くは枯れていて、咲いている菊は一輪だけのように見える。
 まさにお徳の運命そのものだ。

 菊とは菊之助を指すだけではない。上品に凛として慎ましい姿から、お徳の象徴でもあることは明白だ。
 そして残菊とは、辞書的には「重陽(ちようよう)(陰暦九月九日)を過ぎて咲いている菊。秋の終わりまで咲き残った菊」のことだけど、儚い(はかない)お徳のことを指しているのが明白だし、「ざんぎく」を「ざんこく(残酷)」に掛けて、お徳の運命は残酷だったということだろう。
 確かに平凡な意味では、お徳は裕福な夫婦生活を得ることはできなかったけど、先に書いたとおり、短くて苦労続きながらも幸福で充実した人生を送ったと思いたいな。

● 連獅子
 話を少し戻して、道頓堀の舟乗り込みの前、東京に戻った菊之助は、菊五郎、福助と一緒に三人で連獅子を踊る。とても賑(にぎ)やかな舞台で、音楽も踊りもすばらしい。映像は白黒だというのにカラフルかと錯覚してしまうほど、鮮やかで華やかなシーンだ。(この映画で「ワンシーン・ワンカット」だけに拘(こだわ)るのって、何とセンス悪いかと実感するところ。)
 実は、このとき既に菊之助はお徳を失っているのだけれど、立派に舞い踊る。もはやお徳は菊之助の傍らで彼を支えることはないが、菊之助の心の中で支え続けているということだろう。菊之助がこれから立派な役者になることは間違いない。
 この映画を最初に観たときはさほど感動しなかったけど、話の全体を知ったうえでこのシーンの菊之助の口上を聞くと、ちょっと泣けるものがある。

● 観てほしい
 傑作に間違いない。でも70年以上も昔の映画。お薦めするのはどうかな。
 特に、銭金銭金、ブランド品と海外旅行が生きがい――というタイプには無理。
 そうではなくて、愛する人への献身に憧れ、凛とした残菊となるような生き方を理想と思う人――そういう人に観てほしいな。


(*1) 中には、「この映画は全編ワンシーン・ワンカットだ!」みたいな評判を見たこともある。これはまったくのデタラメ。
 ちなみに、ストーリーの転換点ともいうべき、名古屋での芝居のシーンでは、踊りを見守る人たちのカットがいくつも挟まるし、芝居そのもののカメラ・アングルも、観客からの視点だけでなく、お徳からの視点など、何通りにも切り替わる。
 映画のラストのクライマックスに至っては、道頓堀の船乗り込みとお徳の部屋とが交互に映る。文字通り典型的なカットバックそのもので、ワンシーン・ワンカットとは、まったく逆のもの。
 この映画で「ワンシーン・ワンカット」を強調する人は、当時の観客や映画史を勉強中の生徒さんならともかく、映像をきちんと見ない人であることは間違いない。

(*2) 正しくは「鬼」の字には第一画の角(ツノ)がない

(*3) 神と仏とがごちゃごちゃしているけど、すっきり別れるのは明治維新の廃仏毀釈以後のこと。鬼子母神の信仰は室町時代に始まるらしいので、神仏習合状態なのだろう。

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連獅子
菊之助「未熟ながらも幾歳の
    難行苦行の甲斐あって
    再びまみえる晴れ舞台」

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堀――道頓堀の舟乗り込み

溝口健二の映画の感想
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