映画の感想文 [480] ダンサー・イン・ザ・ダーク

【ダンサー・イン・ザ・ダーク】
原題:Dancer in the Dark
日本公開:2000年12月
制作国:デンマーク、ドイツ
監督:Lars von Trier(ラース・フォン・トリアー)
出演:Bjork(ビョーク)

===== あらすじ =====
 チェコスロバキアから米国の田舎町へ移民してきたセルマは、プレス工場で働きながら、工員仲間のキャシーと一緒にミュージカルのサークルへ通い、次の公演の稽古に励んでいた。近所のジェフがトラックでセルマを送り迎えしようとするが、セルマはいつもそれを断っていた。
 セルマは、警官のビルとリンダ夫妻のトレーラーハウスを借りて、12歳の息子ジーンと二人暮らしをしていた。実はセルマは視力がどんどん衰えていて、今はほとんど見えなくなっていた。その病気は息子にも遺伝するもので、その手術費用を貯めるため、セルマは視力のことを隠して働いていたのだ。
 しかし、収入を増やそうと、無理に夜勤を行ったときにプレス機を壊してしまい、工場を解雇されてしまう。セルマは息子の手術のために自分のことは犠牲にすると決意を固め、これまでに貯めた金額で何とか手術を頼むことにした。
 ところがお金を入れていた缶は空になっていた。借金の返済で困っているビルに貯金の隠し場所を見られていたとセルマは直感した。


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「お前には、これ以上、見るものはない」

===== 感想 =====

● 難しい
 移民の境遇、視力喪失、子供への遺伝という苦悩、金銭的な余裕もない。唯一の楽しみだったミュージカルには代役を用意される。そして会社を解雇され、さらに貯めた手術費用を盗まれる。ドツボだ。

 暗い、重い、落ち込む、鬱、絶望、救いがない、そして残酷、……。多くの観客は、こうした感想を持つだろう。
 直感的にはそのとおりなのだが、観終わってから全体を振り返ってみると、感想を書くのがとても難しい映画だと気づく。おそらく、これまで感想を書いた中で一番難しいんじゃないかな。
 単に『難解』ということではなく、どうもこういう公の場に書きにくい内容になりがちなのだ。

 その一つは、この映画のテーマやメッセージを考えていると、とんでもない結論に至ってしまうということ。現代人の感覚からは間違っているとしか言いようのないような、恐ろしくて残酷な言葉を書かないといけないことになりそうだ。

 その2は、この監督の性格だ。ごくわずかな映画しか見ていないけれど、この映画の前後の作品では基本的には『偽善』というものを暴こうとする意図があるようで、それがきつい悪意となって表出するように感じられる。また、女性への扱いも一種異様なものがある。(*1)

 その3は、特に日本での感想だと思うけど、この映画は「泣かないといけない」らしいのだ。プロの評論家のレビューにも「泣かそう、泣かそうとした、あざとい映画」なんて指摘もある。
 ところが僕はこの映画ではちっとも泣けないのだ。何か感覚的にずれているところがあるような気がするのだが、良く分からないままだ。

 まあ、こうした難しい話の前に、多少なりとも明るいネタを見ておこう。

● ミュージカル仕立て
 この映画は、『マイ・フェイバリット・シングス(My Favorite Things)』から始まる。『サウンド・オブ・ミュージック』の一曲だ(僕の場合はジョン・コルトレーンのほうが好み――マイ・フェイバリットだけど)。
 日本では、こうしたミュージカル仕立てを嫌う人が多いみたい。僕はむしろ好きなほうだ。何しろ子供のころに、東映の『孫悟空』にしろ、ディズニーの『白雪姫』にしろ、ミュージカル仕立てのアニメで育ったのだ。

 実際には、この映画の本編でミュージカル的な部分は、冒頭の『マイ・フェイバリット・シングス』と最後の『最後から2番目の歌』を除き、セルマが空想の中で唄うというものになっている。しかも、周囲の音がトリガーとなるという趣向だ。それぞれの出だしは次のような感じ。
1曲目 工場の機械の音
2曲目 列車の車輪が線路を鳴らす音
3曲目 レコードの送り溝の針の音
4曲目 ミュージカルの練習でバチが机を叩く音
5曲目 法廷画家が鉛筆を紙に走らせる音
6曲目 通風孔の音
7曲目 独房を出て歩く音
8曲目 心の音(心臓の鼓動)
 6曲目は『マイ・フェイバリット・シングス』をセルマが一人で唄っているもの。映画の冒頭で現実世界で唄っていた曲で、このシーンでも最初は現実で唄うが、途中から少しだけ空想になるようだ。おそらく現実と空想がクロスし始めたという伏線なのだろう。
 8曲目は『最後から2番目の歌』で、この歌はすべて現実で唄っている。すなわち、ここは現実と空想が完全にクロスした場面なのだ。

● 現実の映像と空想の映像
 この映画は、現実シーンと空想シーンとで映像をはっきりと別物にしている。
 すなわち、カメラは現実シーンは手持ちで、空想シーンは固定。アングルも、現実シーンの多くは目の高さで、空想シーンでは俯瞰や仰角や接写などが使われる。そして色合いも現実シーンはセピアなど色落ちしているのに対し、空想シーンは明度や彩度が高くて鮮明で、雲まではっきり映る。
 要するに、現実シーンはセルマの視力に多少合わせて見えにくいものにしているということだ。(*2)
 ただし、8曲目の『最後から2番目の歌』では、現実と空想がクロスするので、鮮明な映像だし、最後のほうは完全に固定カメラだ。こうした理由はテーマに直結すると思われるけど、僕の考えは後で述べることにする。

● I've Seen It All (その1)
 セルマの歌の中でどれが好きかというのは人それぞれだと思うけど、僕は平凡に(?)2曲目の“I've Seen It All”が好き(*3)。
 線路の音がリズムを刻み始め、セルマが唄いだす。途中はジェフとセルマの問答のような歌詞となり、最後に男たちの低いコーラスがあって、再び線路のリズムで終わるまで、きっちり5分間。音も歌声も映像も見事で、まさに珠玉の5分間だ。
 ただし、この歌詞はすごく残酷だと思う。

 工場からの帰り道の線路脇で、目が見えないことをジェフに知られたセルマが唄うのだが、その大意は次のようなものだ。
「私は、自分の人生も将来も、自分が見ることができるものすべてを見た。
 私には、これ以上、見るものはない」
 目が見えなくなったセルマの、何とも強烈な言葉だ。
 しかし、この歌詞がすごいのは、セルマに“とどめ”をさすことだろう。すなわち、貨物列車に乗っている男たちがほぼ同じ歌詞を唄う。ただし主語を “you” (セルマのこと)に置き換えて!
「あなたは、自分の人生も将来も、自分が見ることができるものすべてを見た。
 あなたには、これ以上、見るものはない」
 単なるバックコーラスがリフレインを唄うならば主語は“I”のままでよく、それを“you”に換える必要などない。何故わざわざ主語を換えないといけないのか?
 この男たちは何者なのか?
 いや、この男たちの歌声は何なのか?

 おそらく、神の声、あるいはセルマの運命の声なのだろう。
 「これ以上、見るものはない」というのは、セルマの意思であるだけではなく、セルマの運命そのものの無情な宣告なのだ。
 何と残酷な!

● I've Seen It All (その2)
 僕はこの映画で泣けないと書いたが、実はウルッときそうになった瞬間がある。この曲の一節だ。

Jeff :'And the man you will marry? The home you will share?'
Selma:'To be honest, I really don’t care.'
ジェフ「結婚する相手や、一緒に住む家は?(見たくないか?)」
セルマ「正直、私はどうでもいいのよ」

Jeff :'Your grandson's hands as he plays with your hair?'
Selma:'To be honest, I really don’t care.'
ジェフ「君の髪で遊ぶ孫の手は?(見たくないか?)」
セルマ「正直、私はどうでもいいのよ」

 息子の目の手術のために、自分の結婚も家庭も、そして孫も、もう見ることができなくてもかまわないというのだ。これほど悲しい諦めの言葉、犠牲的な献身はない。僕はウルッとなりかかっていた。そのまま、例えば 'I don’t care.' のリフレインなどが続けば、きっと涙がこぼれただろう。
 ところが先ほど書いたように男性コーラスの2人称の歌詞になる。「れれれ?」となってしまったのだ。
 しかも、映像を見ると、このときセルマはものすごくキリッとした表情をし、全身のポーズにも力がみなぎっている。「お前には、これ以上、見るものはない」という運命の宣告を毅然と全身で受け止めているのだ。
 そしてセルマの心は運命の列車に乗ってジェフから去っていく。

 これは、ある意味、ショックだった。
 息子を想うセルマの意思の強固なこと――それは分かった。
 しかし、何と意地の悪い演出だろう――これからも、いろいろな象徴や比喩や含みや伏線が満載かもしれない。
 この映画、やはり一筋縄ではいかないなと観念して、座り直した次第だ。

● 最後から2番目の歌
 セルマの言葉は、注意深く聞かないと誤解を招く。
 孫のことなどどうでもいいと思っているわけではない。
 孫を見ることができなくてもいいと思っているのだ。

 関連する場面が二つある。
 一つは拘置所でのジェフとの会話で、「遺伝するとわかっていながら、なぜ子供を産んだ?」とジェフに問われた時だ。セルマの答は、
「赤ん坊を抱きたかったから」
 もう一つは、映画のラスト近く、息子ジーンの眼鏡を渡されながら、「いずれセルマも孫を見る(You will see grandchildren.)」とキャシーに言われたとき。セルマは興奮を治め、幸せそうな表情を見せる。

 セルマは自分の息子も孫もこの世に残したいと願っていたのだ。
 自分の子の病は治り、いずれ孫もできるかもしれないと知って、セルマは落ち着きを取り戻し、優しい顔で『最後から2番目の歌』を唄いだす。遺伝病に悩む自分がいる現実世界と、孫がいる未来という空想世界とが、ようやくクロスして一つのもの、現実のものになったのだ。
 しかし、この歌は唐突にバサリと終わる。

 ここから恐ろしい話になる。
 劇中の台詞から、『最後から2番目の歌』とは、物語に終わりが無いようにと願うことの象徴だ。この歌を唄う時、セルマは自分の死を覚悟し、一方で自分の息子や孫のことを思っている。故に、このシーンでセルマが望んでいるのは、自分の子孫に終わりが無いようにということであり、言葉を換えれば自分の遺伝子が永遠に伝わるようにということだ。
 ここに先ほどのジェフの言葉がのしかかる。
 「遺伝するとわかっていながら、なぜ子供を産んだ?」
 重い遺伝病を持っている者は、その遺伝子――子孫を残してはいけないのか?

 僕らの感覚からみれば、こんな問いかけそのものが人間性を疑わせるものだが、日本にもつい最近まで『優生保護法』といった法律もあり、現実には簡単に結論を下せないようなケースもあるのだろう。
 この映画では、セルマが自分の子供や孫のために必死になったこと自体が罪であるかのように描かれている――僕にはそう感じられるのだ。(*4)

 自分から子へ、さらに子から孫へと受け継がれる自分の遺伝子。セルマの場合、そこに一筋の闇(the Dark)があるということか。
 そしてこの監督は「親の愛情の偽善」あるいは「身体的・遺伝的にハンディキャップのある者の偽善」といったものを抉り出そうとしている?

 こんな結論、いいのだろうか?
 通常は、こうした主張は肯定的にではなく、問題提起として語られるものだ。しかし、この監督の場合、そうした底意地の悪い不気味さを秘めているように感じられる。
 映画のエンディングを見てみよう。

● セルマの行く先
 エンドロール直前、本編最後のカット――カーテンが閉められると、セルマの様子を捉えていたカメラは上へ上へと昇っていく。セルマの魂が昇天しているのだ。
 しかしその先は何か? 映画を最後まできちんと観よう。
 答は ―― 暗闇(the Dark) ――
 セルマの魂の行く先は、光輝く天国ではないのだ。

 なんと残酷な監督だ!

● 最後の歌
 この映画の最後の歌は、エンドロールで流れる“New World“という曲だ。この歌詞で一番注目すべき個所は次のパラグラフだろう。

I wonder what happens next?
A new world, a new day to see.
I'm softly walking on air,
Halfway to heaven from here.
Sunlight unfolds in my hair.
(次に何が起こるのかしら?
 見る価値のある新しい世界と新しい日だわ。(*5)
 私は空をそっと歩いている、
 ここから天国までの中間のところよ。
 太陽の光が私の髪を広げているの。)

 ボサッと歌詞を聞いていると、天国へ向かう内容になっているかのように思える。やっぱりセルマは天国へ行くんだ。良かった、良かった……って、ちょっと待てい!
 この曲に重なるようにエンドロールに流れる画は、それまでの本編のカットであって、新しい世界でもなければ新しい日々でもない。いったい、どうなっているのだ?

 もう一度、歌詞をちゃんと見ると、あくまでも「次に何が起こるのかしら? ~(I wonder what happens next? ~)」となっている。新しい世界や新しい日は、彼女が wonder すること、つまり彼女の興味や関心の対象にすぎないのだ。
 つまりこれは、彼女の身に実際に生じていることではない。

 さらに続けて、空を歩いているのも、太陽の光が髪を広げるのも、今、実際に起こっていることではない。なぜなら、彼女は“ここ”にいるのであって、天国にいるのではないし、“ここ”と天国との中間のところにいることも論理的にありえない。すべて想像にすぎないのだ。
 それでは、彼女がいまいる“ここ”とはどこか?

 映画の流れから、やはり“暗闇”としか考えられない
 彼女は“暗闇の中の踊り子”なのだ。

● 俳優
 主役のセルマを演じるのはビョーク。アイスランドの歌手だが、この映画まで、僕はまったくノーマークだった。
 演技はそれほどうまくない。表情にしろ動きにしろ、喜怒哀楽が乏しいし、稀にあったとしても、ちょっとわざとらしい芝居だ。しかし、映画の多くの部分を占める歌唱部分はすごい。特にその声質だ。
 広い野原で空の彼方へ抜けるような歌声。からっと響くようで、ときに粘っこくからみつくような唄い方。
 唄っているときには表情も豊かで、さすがに表現力も高くなる。
 全体を通じてみれば、彼女の歌唱に注目して、彼女が主演女優として賞賛されるというのも、大いにありだろう。

 共演では、キャシー役のカトリーヌ・ドヌーヴ、ジェフ役のピーター・ストーメア、ビル役のデヴィッド・モース、医師役のウド・キアなどが、他の感想文でもおなじみ。
 一人挙げるとすれば、カトリーヌ・ドヌーヴかな。この人、すごい美人なのに、ちょっと垢抜けないところがあって庶民的。でもやっぱり田舎の女工さんは無理で、都会の婦人ぐらいにしか見えなかった。

● お薦め
 この映画に対する好き嫌いは激しいだろう。観て感じることも、泣き・嫌悪・混乱など人様々だと思う。
 でも、一度は観ないと始まらないって感じ。


(*1) 例えば、『ドッグヴィル』は「寛容の末路・破綻」でニコール・キッドマンがレイプされまくるし、脚本の『ディア・ウェンディ』では「正義の末路・破綻」で女子のほうがちょっとエッチ。

(*2) 「ドグマ95」という言葉があるのだそうな。ドグマ(dogma)は、宗教上の教義・教理、独断的な説のことで、「教条」と訳すことが多いんじゃないかな。
 この映画では、ドグマ95に従うところと、そうでないところがあるのは何故かなど、神学論争……ではなくて、クイズや謎々のようなネタになりそうだけど、僕は理屈は苦手なので、どうでもいいやという感じ。

(*3) アカデミー賞の歌曲部門にノミネートされた。人気が高い曲らしい。

(*4) モロネタばれなので伏字。
 セルマがビルに行ったことは、明らかに殺人だ。
 最初の銃弾は暴発なので事故かもしれないが、2発目以降を全弾撃ち尽くし、さらに貸し金庫で頭部を殴打したのは殺意があったとしか思えない。安楽死とは異なり、このケースでは本人が殺してくれと懇願したことなど、情状されることではない。
 セルマはなぜ殺人を犯したのか。しかも執拗に殺そうとしたのはなぜか。
 ビルが生きていたら、再び金を奪われるかもしれないと恐れたからだろう。セルマは手術費用の支払いが済むまでは、誰にも一切邪魔をされたくはなかったのだ。
 1人の殺人に対する罰が絞首刑というのは、重いか軽いか、何とも判断しかねるが、必ずしも不当なものとはいえないだろう。
 しかし、この映画では、セルマへの罰は、殺人への罰ということより、その動機である自分の遺伝子を伝えたことへの罰であるかのような描き方なのだ。そうでないのであれば、遺伝病という設定そのものが、映画の上で意味を持たないことになってしまう。


(*5) ネットなどを見ると、1行めの 'to see' を「見るために」と訳したものが多いみたい。
 僕は、たぶん不定詞の形容詞的用法ではないかと思う。
 「to + 動詞の原形」で「~する価値のある」、したがって 'to see' は「見る価値のある」となる。
 はたして、どちらが正しいのやら?

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Jeff :'And the man you will marry? The home you will share?'
Selma:'To be honest, I really don’t care.'
ジェフ「結婚する相手や、一緒に住む家は?(見たくないか?)」
セルマ「正直、私はどうでもいいのよ」

画像
Jeff :'Your grandson's hands as he plays with your hair?'
Selma:'To be honest, I really don’t care.'
ジェフ「君の髪で遊ぶ孫の手は?(見たくないか?)」
セルマ「正直、私はどうでもいいのよ」

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まあ、評論やレビューといったほどのものではございませんが。