映画の感想文 [500] 1999年の夏休み

【1999年の夏休み】
公開:1988年3月26日
監督:金子修介
出演:宮島依里、大寶智子、中野みゆき、水原里絵(深津絵里)

===== あらすじ =====
 満月の夜、深い森に囲まれた湖の岸から、一人の少年が跳んだ。闇の中、鏡のような湖面には、丸い波紋が静かに広がっていく。それから三カ月……。
 白樺林の奥にひっそりと建つ男子全寮制の学院が夏休みを迎えた。教師と生徒の多くは帰省し、帰る家のない三年生の直人と和彦、二年生の則夫の三人だけが残り、自炊しながらの共同生活を始めることになった。
 十日ほどたったころ、薫という転校生がやってきた。その姿を見て、直人たち三人は息を飲んだ。三カ月前に自殺した学院生の悠にそっくりだったからだ。悠は和彦に思いを寄せていた。何度手紙を書いても一度も振り向いてもらえず、ついに学院近くの湖に身を投げ、その亡骸は見つかってはいなかった。実は直人も則夫も密かに和彦を思っていた。
 直人たちは薫の正体が悠ではないかと疑うが、その性格は内向的な悠と違って明るく奔放なものだった。和彦が薫を見る目は次第に優しいものになっていく。それに気づき、嫉妬や孤独感を抱く直人と則夫。
 4人の時間は奇妙に捻(ねじ)れていった。

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===== 感想(やや、ネタバレ) =====

● マイ・ベスト
 朝靄(あさもや)と霧と夕焼けと月光。シュール(超現実)というよりは、はかなげで朧(おぼろ)げな映画。
 観るたびに金縛りのようになり、観終わると深い満足感に溜め息をつく。

 これまでに見た中で一番好きな映画だ。やや似たトーンの『ベニスに死す』よりも『ニアダーク』よりも『幻の市街戦』よりも、あるいは『台風クラブ』よりも『イノセンス』よりも上をいく。トーンは違うけど『クレオパトラ』や『風と共に去りぬ』や『史上最大の作戦』といった超大作よりも、僕にとっては傑作映画。
 変態といわれようと、恥さらしといわれようと、好きなものは好きなのだ。

● 背景
 この話は萩尾望都の漫画『トーマの心臓』を翻案したもの。ただし、エンドロールなどにクレジットされていないので、この映画と漫画とを比較しても、あまり意味がないと思う。もちろん正式な了承は受けた上での映画化だ。(*1)

 学院は人里離れた山奥にある。単線の2両編成列車に乗って山奥の駅で降り、そこから森の中をしばらく歩いて小さな湖の畔に着き、さらに白樺林の間を抜けたところに、柱の列が印象的な白亜の学院が建っている。夏休みの間、週に1回だけおばさんが食糧を運びに来てくれる以外は、訪ねる人もいない孤立した世界だ。

 どうも原子力に関連する事故が起こった後のお話らしい。
 和彦の両親は発電所の事故の後遺症で死んだということだが、おそらく原発のことだろう。また、「51」など、駅や森あるいは寮の庭や部屋の中に奇妙な装置が立ち、ところどころに放射能標識(三葉マーク)が貼られている。
 いまとなってはシャレにならないが、公開当時であれば、11年後という近未来を描いたSF映画という観方もできるのだ。

● 疑心と恋心と恐怖
 こうした世界で、奇妙な物語が進んでいくことになる。

 自分たちだけの時間を過ごすと思っていた三人。そこへ現れた、自殺した子にそっくりな転校生。その子が実は自分らの仕打ちで失意のあまり身を投げたことは明らかだ。
 似ているのは単なる偶然だろうか?
 遺体は見つかっていないので、名前を変えた本人ではないだろうか?
 あるいは容姿の似た近親者が復讐にやってきたのかも?
 まさか幽霊……?
 迎え入れる三人は疑心に悩み、苛立つが、それぞれが下した結論はまったく異なるものだった。和彦は薫と悠とは別人だと考え、直人は薫は悠だと断定する。寂しがり屋の則夫は、自分に優しければ薫の正体など何でもよかった。

 この映画では、例えば薫と和彦との会話シーンなどで突然背景が飛ぶことがある。一見すると、カットのつなぎを失敗したかのように見えるが、当然、演出の一部だ。また、悠と仲の良かった則夫のフィギュア遊びが、話の筋を進めているかのような場面もある。
 こうしたところも含め、場面の雰囲気が切り替わるときは、いつも悠の意図を感じる。自殺した悠が和彦へ寄せる恋心が、ずっと画面の背後に存在し続けているかのようだ。その一途な思いが純真を感じさせることもあれば、執念や怨念のようなものを感じさせるときもある。直人たち三人は見えない力に踊らされているのだ。
 やがて直人も則夫も自分が秘めていた思いをあらわにし始め、和彦は薫に強く惹かれていく。
 儚(はかな)い恋心が生み出すこの捩れた感覚が、異形の時空の出来事のように思わせて、たまらない魅力となっている。

 そして歪んだ恋心は魔を呼ぶ。
 和彦を薫に奪われたと悟った直人が、則夫や薫に対して行う仕打ちは、心が魔物になったとしか思えないほど冷たく恐ろしいものだ。しかしそれはかえって和彦の心を薫へと向かわせるものだった。願いを勝ち取った薫が語る言葉は……。
 それはとても美しくて悲しくて切ないもの。
 僕はこの映画を観ると、5回に1回ぐらいの割合で、このシーンで背筋が凍るような恐怖を感じるときがある。並のホラーより怖いと思えてしまうのだ。実際には耽美的で退廃的なシーンだし、たいていはそう思うのにね。おそらく自分自身の心情の微妙な違いで、この映画から受ける感情の変化がまったく異なるものになってしまうということなのだろう。
 本当に不思議な映画だ。

● 配役(その1)
 この映画で一番分かりやすい特徴は、その配役だ。
 姿が登場する役者は次の4人だけ。
  宮島依里 :悠、薫、少年の「私」
  大寶智子 :和彦
  中野みゆき:直人
  水原里絵(深津絵里の旧芸名):則夫
 いずれも女性が男性を演じ、男性に恋をするという芝居をしている。もっとも、日本では歌舞伎で男が女を演じ、宝塚で女が男を演じるなど、こういう芝居は日常的だ。

 さらに、次の四人が声の吹き替えを行っている。
  高山みなみ:悠、薫、少年の「私」
  佐々木望 :和彦
  村田博美 :直人
  前田昌明 :ナレーション(「私」)
 和彦と「私」以外は女性が男性の声を演じている。これって、アニメの世界ではありふれたこと。

 故に、歌舞伎や宝塚あるいはアニメを見慣れていれば、女性が男性を演じることに違和感を感じる理由は乏しいはず。でも、そうそう生易しい映画ではない。
 変な映画という感想を持つ人は多いみたいだけど、僕が違和感を感じたのは、この映画を一番最初に観たときの最初の数分間だけだ。それ以外は、こうした配役はこの映画にとって必然だったと確信している。

 だからといって役者たちが巧いというわけではない。いまや日本アカデミー主演女優賞をとった深津絵里でさえ、この映画の芝居はぎこちない。
 4人の女優は微妙な性格の男子を演じようとしているが、その出来栄えがこれまた微妙。悠を演じる時の宮島依里以外は、背筋を伸ばし肩をいからせ、少し力強い歩き方で男子の表現をしようとしている。顔つきも、目元をきつく、顎を引き締めた表情を作ろうとしている。しかし、それでもやはり男子とは違う。彼女たちに男子に成り切るという芝居を期待するなら、失望ものだろう。
 もちろん、この映画では「男子に成り切る」ことなど必要ない。むしろ性別など超越したキャラクターであるほうがいいに決まってる。彼女たちは、あるいは監督は、そうした雰囲気というものを充分に描くことができたんじゃないかな。

● 配役(その2)
 宮島依里は垂れ目が特徴的。場面によっては完全にパンダ顔になっている。
 後髪は短く刈っているものの、三人の役ごとに前髪や整髪料などが違っているみたい。また、女性的な表情や所作の悠、少し乱暴なしゃべり方で肩を突き出すように相手に詰め寄ったり膝を高く上げて歩く薫、そして落ち着いた雰囲気の「私」というように、三人を演じ分けようとしているようだ。
 クライマックスで和彦を誘惑するシーンは秀逸。話の流れとしては二人のキスが不自然に思えるのだけれど、異次元の磁力のようなもので和彦を引き寄せていると考えれば、これほどシュールなキスシーンというのは特筆ものだ。
 ここは、スクリーンから伝わってくる波動を感じるかどうか――オカルトチックな言い方だけど――そういった感受性の有る無しが大きいと思う。

 大寶智子は神経質な和彦を必死になって演じたように思える。登場人物の中で、最も男性的な性格の役だと思うけど、彼女は男子に化けるのに誰よりも苦労しているという感じなのだ。肩をいからせすぎて体が硬くなり、それで動きがぎこちなくなって、特に歩き方が不自然に見えることが多い。
 でも、そこ、突っ込んじゃダメ!
 それでも監督は彼女にこの役をやらせた。そうした「少し不自然」が醸し出す雰囲気こそを必要としていたのだろう。
 彼女は、宮島依里と中野みゆきの二人とキスをする。そのことだけを考えると、なんかドキドキしてしまうんだよね。

 中野みゆきは、ポケットに手を入れたポーズが素敵!
 正直に言うと、4人の中で演技が少し劣ると思う。でも、素が一番の美人なので、中性的なビジュアルの魅力は彼女が最も優れているように感じる。この映画の独特のトーンを醸し出すうえで、貢献度は絶大だろう。
 それにしても、ベッドで悪夢に苦しむ和彦を介抱するシーン――下手だなあと思っていると、なんと唇に糸を引く人工呼吸を見せてくれる。これほど歪んだ感覚になるキスシーンって、すごく珍しい(*2)。「すげえ!」と思ってると、それに続けて、またまたヘタな芝居。さらに眠れる大寶智子にとどめのキス――こちらの頭は色々な意味で振り回されて、クラクラになってしまう。
 それでも彼女にシンパシィを持ってしまうというのは、それだけ存在感が重かったということなのだろう。

 深津絵里は「愛されたがり屋」の少年を演じた。彼女にキスシーンはない。その代り、薫のベッドで一緒に眠るという場面が用意されている。ちょっと危なっかしい雰囲気。
 深津絵里は元々クセのない目鼻立ちと細い体形をしているので、髪を刈り上げに近いショートカットにし、目と肩に力を入れることで、ほぼ中性的な少年の役つくり完成。ただし、走ったりサッカーボールでドリブルしたりする姿は少女のまま。ここは「男子に成り切る」ことをあえて避けたというよりは、当時の彼女の演技力の限界のような気がする。
 他の役者より抜きん出ているといった印象はない。それでも顔立ちに、何か一味違うものを感じさせる。気のせいかな。

● スタッフ
 衣装も特徴的だ。直人、和彦、則夫、悠は学院の制服で、濃いグレーのブレザーと黒の半ズボン、黒のソックスに黒のローファー。サスペンダーと膝上のソックスガーターが特徴的。薫は転校前の学校の制服らしく、黒いブレザーに白い半ズボンと白いハイソックス。胸元にはリボン状のタイ又は棒タイを締める(則夫が直そうとしてウザがられる)。
 アイテムとしてブラウン管がむき出しのパソコンが目立つけど、僕の場合、ドラフター(製図台)がおシャレなインテリアになっているほうが気になる。

 監督は金子修介。十代の少女を撮らせたら天才的だ。
 脚本は岸田理生。1974年に寺山修司の劇団天井桟敷に参加したというから年期が入ってる。
 映画全体に静かで美しいピアノが流れるのだが、音楽は中村由利子。直人たちが演奏する曲がベートーヴェンのピアノ三重奏曲第7番「大公」というのも、四人の性格や心情が浮き出る上に、ピアノの薫が引き立つという、実に適格な選曲だ。なお、この曲は則夫が料理をするときにハミングしている。

● ロケ
 ロケ地についても感想を言わずにいられない。
 この映画のファンが実際にロケ地を訪ねた様子を綴ったサイトなどもあり、ほとんどの場面についてロケ地を特定することができるようだ。

 何度か登場する鉄道は鹿島鉄道で、駅は坂戸駅。これらは2007年4月1日に鹿島鉄道線が廃線となり、駅も廃駅となったらしい。寂しい話だが、でも1999年には実際に存在していたことになる。
 白樺林は主に八千穂高原、寮や学校の屋内は東京YMCAホテルや横浜セントジョセフハイスクール、薫の母親のアトリエは渋谷ルナハウスとのこと。

 何といっても印象的なのは、寮の建物だろう。左右対称の安定した姿、無機質な白亜の外壁、どことなく謎めいた列柱、芝居じみた正面の石段、そしてまっすぐ中を覗けば階段の踊り場に大きな振り子時計が鎮座している。
 建物全体に威圧感があって、幽玄な雰囲気を漂わせているが、話の経過とともに、子供たちを閉じ込める冷たい独房のようでもあり、逆に子供たちが包まれる温かい巣のようでもあり、こうした両極端を感じさせる役者な建物だ。
 この建物、何と横浜にある。東横線大倉山駅のすぐ脇の丘の上に建つ大倉山記念館という。東横線が鶴見川を渡るときに車内からよく見えるので、僕は随分昔から何度も見ていたことになる。だけど、この映画を最初に観たときは、似ているなと思っただけで、まさか本当にこの建物とは思わなかった。実際に行ってみると、映画というものは随分綺麗に撮るものだと感心すると思う。少なくとも建物が持つムードというのはまるで違う。

 そしてもう一つの重要なロケ地が湖だ。悠が身を投げ、4人が花火で遊び、クライマックスの舞台となる。
 神秘的で幻想的。美しい娘や少年がこの湖に身を投げれば、きっとその肉体は朽ちることなく、永遠に美しい姿を湖底にとどめることができそうだ。おそらく太古の時代から、数えきれないほどの悲しみや恨みを飲み込んできたに違いない。霧がなびく鏡のような湖面の下には、そうした多くの情念が漂っているのだ――こうした妄想を次々とかきたてる風景だ。
 実に見事なロケ地。この映画の成功はこの湖があればこそだろう。

 場所は群馬県の碓氷湖。関東や長野の人にとって「碓氷」といえば碓氷峠をまず思い浮かべる。横川と軽井沢を隔てる峠だ。この湖は横川のほうから峠に向かって旧道を少し上ったところにある。近くには霧積高原(『人間の証明』の「キス・ミー」で有名。)もあって、何かと映画に縁のある場所みたい。
 実際には堰がはっきり映っていて、この湖は人造湖だと分かる。太古からあったわけではないのだ。でも映画ではムード満点。撮り方が巧いんだね。
 僕は数年前に現地へ行ってみたけれど、すっかり観光化が進んで俗っぽい場所になっていた。大きな無料駐車場があり、湖畔はぐるりと遊歩道が取り囲んでいて、小一時間もあれば歩いて一周できるようになっている。
 面白いことに桟橋とボートがある。実際に使われている様子はないので、おそらくこの映画のファンたちのために用意されているのだろう。きっと「皆、死んでしまう!」と言いながらボートに乗り込むポーズをとって記念撮影する子が多いんだろうな。もちろん服装は白いシャツに黒い半ズボンで、髪はボーイッシュなショートカットの可愛い子だと思うけど(?)。
 でも、花火の燃えかすや失恋の手紙を投げ捨てちゃだめだからね!

● 絵
 この映画では、映像というよりは、深く印象に残るようなすばらしい絵がいくつも登場する。
 まず全編を通じて、湖や学院の風景そのものとか、朝靄あるいは夏の陽射しの中で草原や森を歩く場面などが、とても美しい絵になっている。そして、薫を中心にして少年たちが触れ合うシーンも、心情的に切なさのようなものが込み上げてくる絵が多い。
 特定の場面では、花火や夕暮れなど、泣きたいほど美しい。
 直人、和彦、則夫そして「私」の四人のひと夏の成長を暗示する青虫の孵化の様子が何度か挿入されるけど、そのさりげなさが巧み。
 映画の最後の絵は、教室の窓辺で揺れるカーテン。これもエンディングの傑作だと思う。森を抜ける風のすがすがしさが、いつまでも余韻に残るはずだ。

● 太っ腹
 この映画、僕にとっては最高傑作。
 太っ腹な気持ちで是非。


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学院

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三人だけの夏休みの始まり

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ポケットに手を突っ込んだ直人

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桟橋とボート

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音楽室にて
二人の美少年とバイオリン
少女漫画の王道のような絵だ

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アトリエ

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怖ろしい目つき

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「僕にはツキもない」

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泣きたくなるような夕暮れ

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揺れるカーテン
2台のドラフターがお洒落


(*1) 基本的な設定や展開は、同じところもあれば違うところもある。漫画の中のいくつかのシーンやセリフは、そのまま映画でも使われている。
 なお、僕が一番共通性が高いなと思うのは、全編を通じて自殺した者の意思が感じられることだ。
 つまり、この映画の真の主役は自殺した悠の意思だと思うし、漫画『トーマの心臓』の真の主役は自殺したトーマの心臓の音、つまりトーマの意思だと思う。

(*2) 同性どうしのキスシーンというのは、あまりきれいなものではない。男性どうしはもちろん、女どうしでも見れば引いてしまうものだ。
 でも、この映画のキスシーンは違うんだよね。とりたてて美しい絵といったわけではないし、耽美的とか退廃的といったものとも違う。ベタな言い方だけど「シュール」とか「異次元」といった言葉が近いかな。

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まあ、オッサンの感想文です。