映画の感想文 [1223] 勝手にしやがれ

【勝手にしやがれ】
原題:A Bout De Souffle
制作国:1959年
制作年:仏国
日本公開: 1960年3月
監督:Jean-Luc Godard(ジャン=リュック・ゴダール)
出演:Jean-Paul Belmondo(ジャン=ポール・ベルモンド), Jean Seberg(ジーン・セバーグ)

===== あらすじ(途中まで) =====
 マルセイユのミシェルは、盗んだ車で走り出す。
 無謀運転をしたために白バイに追われ、はずみで警官を撃ち殺してしまった。
 ミシェルはパリへやって来た。密売の金を受け取るためだが、支払いが小切手だったために現金が無くなり、知り合いの女性の財布から金を抜き取ったり、トイレで見知らぬ男を襲ったりしながら、しのぐことになった。
 彼は、ジャーナリストになるためにソルボンヌ大学に留学に来ている米国人パトリシアに対してだけは、特別な思いを抱いていた。

===== 感想 =====

● どろぼう
 主役は泥棒で密売人。それもかなりショボイことをする。車の盗みを何度もやらかしたり、女の財布から小銭を抜き取ったり、トイレで強盗やったりという具合。警官殺しもまったくの偶発的なもので、やっちまった後に泡食って尻(ケツ)まくって畑をダッシュするようなドン臭さ。
 とにかく、せこくて、しょぼくて、ダメダメなクズの小悪党。
 こんな奴に「勝手にしやがれ」と言われても、屁だよね。
 タイトルと中身が合ってない。

 実はこのタイトルの邦題は、かなり問題ありらしい。
 原題は「A Bout De Souffle」で「息を切らして」あるいは「息切れ」、もしかしたら「息絶えて(=死?)」ぐらいの意味らしい。「勝手にしやがれ」というのは、かなり強引な意訳、いや、かなり誤解を招く誤訳ということになりそうだ。

● フランス語のレトリック
 事はタイトルの訳だけの問題ではない。
 どうもこの映画は、日本語字幕や吹き替えで観るのと、元のフランス語のままで見るのとでは、受けとめ方が大きく異なってしまうみたい。
 つまり、フランス語がバリバリに出来るだけでなく、レトリック(修辞学)などをマスターし、ボードレールやランボーやコクトーなどの詩の幾つかを暗唱し、サルトルあたりを読みかじったような、いわわる当時のインテリなフランス人でなければ、なかなかピンとこない映画らしいのだ。

 で、日本人でこの映画を絶賛する奴がいるけど、フランス語がバリバリに出来て、レトリックが得意で、コクトーあたりを諳んじて、実存主義の哲学書を読みあさったなんて日本人でもない限り、先入観だけで「いい~!、ゴダール最高!」とか言ってる可能性が高いんだよね。
 田舎者のブランド志向、おふらんすコンプレックスざんす――だな。

● 格好良さ
 僕の場合、初見はずいぶん昔のことで、かなり若かったせいか、格好良い映画だなと感じたものだ。今日的には、スタイリッシュとか言いたくなるような感覚ね。

 主役の男女の言動が何となく格好良いのだ。
 殺人を犯して逃げる者とそれを匿う者。人生の重要な岐路だというのに、少しも深刻に悩むところがなく、むしろ普遍的な人生や恋愛の意味を問答し合ったりする。
 男は女の部屋に勝手に忍び込み、女は朝帰りしたばかりだというのに、結局その男と昼までセックスにふける。こうした行動もまるで挨拶のような感覚でこなされていく。
 会話シーンの台詞だって、いかにも実存だの不条理だのに憧れる中二病の心をくすぐるような場面が多い(ジジイになってから見直すと、禅問答の劣化版のように思えるだけの会話だけどな)。

 とにかく軽い。二人の人間性や言動が軽いだけでなく、それを描く演出そのものが軽い。
 この演出の軽さが格好良さの源泉なのかもね。

 で、無頼で奔放で悲惨なネタを軽いタッチで描く――太宰っぽいよね。『勝手にしやがれ』と『人間失格』(とか『ヴィヨンの妻』とか『斜陽』とか)のファンって、もしかしたら重なるところが大きいかもね。
 まあ、好き好きだな。

● 格好悪さ
 なお、いくら格好良いといっても昔の話。現代の多くのストーリーや映像を見慣れた目からすれば、格好悪い要素の方が多い。
 例えば服装など、小さなネクタイ一つ取ったって明らかに時代物で、「時代を超えたセンス」とか言う観客がいたら、とりあえず「眼科へ行け」と忠告したくなるくらい。
 ヘアカットやメイクも、パトリシアのボーイッシュなショートカットは魅力だけど、いまどき、このヘアスタイルにあの化粧は無いわ!
 ミシェルもパトリシアも、親指で唇を拭う仕草をするけど(いまなら「ルーチン」と呼ぶことになるな)、思わせぶりなところが鼻に突くばかりで、ドン臭い。
 映画の冒頭でミシェルが、映画のラストではパトリシアが、カメラ目線になって観客に語りかけるけど、第四の壁とか、やはり現代となってはドン臭い。やっちゃいけない手法ではないけど、まず手法ありきみたいなアザトサが、現代の感覚ではドン臭いのだ。

 まじで現代の目線で観ると、至るところ不格好な映画。
 これを時代を超えた格好良さみたいに言う奴って……。

● 新しい技法
 この映画では、ぬうべるなんちゃらとかいう、当時としては新しい手法がテンコ盛りらしい。僕は映画史に疎いし、この時代より以前の映画を千本近く観て、映像技法を子細に分析・分類・整理したなんて達人でもないので、この映画のどこが新しいのか、さっぱり感じられない。
 もちろん、僕は文字が少しも読めないほどの馬鹿ではないので、この映画の何が新しいか知識としては分かるけど、感性として革新性や目新しさを感じることができないということだ。

 即興演出? 同時録音? ロケ中心? ジャンプカット?
 それがどうしたって感じ。
 特にジャンプカット。例えば『2001年』や『リトル・ダンサー』のような超絶的で効果的かつ天才的な使われ方を知っていれば、この映画のジャンプカットなど、ただ編集が下手糞に感じるだけの代物でしかない。
 やはり、映画史の流れの上での知識としての革新性でしかないのだ。

● 祭り上げ
 まあ、当時のフランス人にとっては、きっと格好良い傑作映画だろう。
 現代の日本人の場合、結局、太宰ファンなら共鳴できるかもしれないけれど、それ以外の人で、かつ最近の映画を年間百本以上観るような人にとっては、ただの年代もの。映画史の教材としての価値ぐらいしかないんじゃないか。

 しかし、こんな感想を書くと自称「えいがつう」から笑われそうだな。
――おまえにゴダールは分からねえよ――
 はい、すいません。映画を「感じる」ことはできても、映画を「分かる」ことはできないタイプなもので……。


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ジャン=リュック・ゴダールの映画の感想
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